小林市の郷土芸能

更新日:2022年02月18日

岩戸神楽(いわとかぐら)

月の浮かぶ背景を背に神楽を踊る演者の写真

伝承地

小林市堤 水流迫地区

踊りの時期と場所

7月30日 岩戸神社夏季大祭
10月中旬 三松中学校文化祭(生徒が演じる)

保存団体名

岩戸神楽保存会

概要

 岩戸神社は大宝元年(西暦701年)建立され、今年で1313年の時を刻んでいる。小林で唯一現存する「岩戸神楽」は約300年余(一時中断あり)舞い継承している。五穀豊穣の祈願や稔りの秋の感謝を込めて、神の来臨を願い神話に言う神々を自らが演じ、二間四方(4メートル)の角に葉竹を飾り、注連縄を張り御幣や榊等で煌びやかな神庭を作りその中で舞われている。謡い舞い継がれているのは、祭神「手力男命」(タジカラオノミコト)にちなんだ「天の岩戸開き」の神舞(かんめ)で古代色豊かに面白おかしく表現している。また、「剣の舞」、「薙刀の舞い」は神秘的かつ優雅に真剣を使っての三節である。楽人は神様3名、剣舞2名、太鼓1名、笛数名、鉦1名(省略もあり)で構成されている。

東方輪太鼓踊り(ひがしかたわだいこおどり)

和服に身を包んだ演者たちがステージの上に並んで太鼓を奏でている写真

伝承地

小林市東方地区

踊りの時期と場所

9月 東方合同大運動会 陰陽石祭り
11月 こばやし秋祭り

保存団体名

東方輪太鼓踊り保存会
東方中学校文化財愛護少年団

概要

 この踊りは、豊臣秀吉の朝鮮出兵から始まったと伝えられています。この出兵に島津氏が藩の軍勢を率いて朝鮮の各地で勇戦敢闘し、士気を鼓舞するため鐘や太鼓を打ち鳴らしつつ戦って大勝利したといわれています。この勇壮な様子を舞踏化したものが輪太鼓踊りの起源です。昭和37年、県無形民俗文化財に指定されています。現在、保存会の協力を得ながら、東方小・中学校で練習しています。

新地馬場棒踊り(しんちばばぼうおどり)

身の丈ほどもある長い棒を手にステージ上で踊る演者たちの写真

伝承地

小林市野尻町東麓地区

踊りの時期と場所

3月 のじりこぴあ桜祭り
9月 野尻小学校運動会

保存団体名

新地馬場棒踊り保存会
野尻小学校文化財愛護少年団

概要

 今から四百十数年前、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、薩摩藩も参加したが秀吉の急死により全軍引き揚げとなり薩摩藩の島津義弘も帰還した。その折、島津の戦功を祝福して領内の各地で色々な踊りが踊られ、その一つが棒踊りであると伝えられています。その後、家内安全や五穀豊穣を祈願して祭りや行事等で踊り継がれてきたものです。戦時に中断していたものを戦後、野尻町内の青年や有志によって復活され、途中一時途切れたものの平成10年旧野尻町の指定無形文化財になったのを機に再発足し、野尻小学校の生徒たちと地域の連携を深めることや地域の活性化を目的に保存会が活動しています。

永田町馬踊り(ながたちょううまおどり)

青い半被を着た男性たちが馬に扮した演者と一緒にステージ上で練り歩く写真

伝承地

小林市細野永田町区

踊りの時期と場所

9月 永田町祭り
10月 南小学校運動会
11月 こばやし秋祭り

保存団体名

永田町馬踊り保存会

概要

 明治、大正の頃、谷山(鹿児島市)・国分・隼人あたりから今の永田町へ荷馬車業者が移り住み、そこから伝えられたのが永田町馬踊りの初めだったと伝えられています。昭和51年、現在の通り町区に馬踊りがあり、その馬を借用して踊ったのを機に、昭和52年に地元有志により馬踊り保存会を発足しました。

岡原田の神踊り(おかはらたのかみおどり)

藁で編んだ笠を頭にかぶり、メシゲを構えて踊る演者たちの写真

伝承地

小林市北西方岡原地区

踊りの時期と場所

8月 永久津夏祭り
9月 永久津小中学校運動会

保存団体名

岡原田の神踊り保存会

概要

 別名「めしげ踊り」ともいい、約800年前、肥後・薩摩を中心に唄い踊られた豊年踊りです。田の神踊りは、屈強な農民姿の青年たちが出端歌を歌い、先頭に神の依代とする削り掛けを持っておごそかに庭入りするところから始まり、笛に合わせて地面を祓い、七・七調の相撲口説にのせてメシゲを打ち鳴らして勇壮に踊ります。

いちょう太鼓(いちょうだいこ)

黒いTシャツ姿の児童たちが元気よくステージ上で太鼓を叩く写真

伝承地

小林市須木鳥田町地区

踊りの時期と場所

8月 すき花火大会 鳥田町夏祭り
11月 ほぜ祭り こばやし秋まつり

保存団体名

いちょう太鼓保存会

概要

 鳥田町いちょう太鼓は、平成10年に結成され、今年で16年目を迎えます。又、旧須木村から小林市と合併となり、新しく「いちょう太鼓」として再スタートをしました。いちょう太鼓が結成されて演奏曲目は、6曲ありますが、演奏曲はすべて上級生が下級生にリズムやバチさばきを教えるという方法で引き継がれ、今現在、活動を行っています。
 少ない児童数で郷土芸能を受け継ぐ為に、毎月計画的に練習を行っています。中学生から小学生へとすばらしい演奏が引き継がれていくよう、これから先も頑張っていきたいと思います。

細野一区輪太鼓踊り(ほそのいっくわだいこおどり)

カラフルな衣装に身を包んで打楽器などを打ち鳴らしながらステージを闊歩する演者たちの写真

伝承地

小林市細野一区

踊りの時期と場所

現在は不定期

保存団体名

細野一区輪太鼓踊り保存会

概要

 この踊りは、豊臣秀吉の朝鮮出兵から始まったと伝えられています。このとき、島津の軍勢は泗川の戦いで士気を鼓舞するため鐘や太鼓を打ち鳴らしつつ踊りながら敵陣に入り、奮戦しました。その勇壮な様子を舞踏化したものといわれています。その後、平時の軍事訓練として薩摩藩内で行われ、江戸時代の中頃には農民の間に広まって小林に伝わったとされています。昭和37年、東方地区とともに県の無形民俗文化財に指定されています。

剣舞一の谷(けんぶいちのたに)

黒い着物に黄色の帯をつけた男性たちと白い着物に赤い袴を着た女性たちが列になり踊る写真

伝承地

小林市須木麓地区

踊りの時期と場所

11月 須木ほぜ祭り

保存団体名

剣舞一の谷保存会

概要

 源平合戦での一場面、須磨の浦で源氏の武将・熊谷次郎直実が平家の若武者・平敦盛を討ち取る場面を剣舞として語り継がれてきたものと言われています。昭和初期に米良から田代八重の人たちに伝えられて祭りなどで披露されていましたが、田代八重小学校の廃校を機に須木の麓地区に移住した住民の方々の手で伝承され、現在にいたっています。

真方一区兵児踊(まがたいっくへこおどり)

武士の服装に身を包んだ演者たちが模造刀を携えて踊る写真

伝承地

小林市真方地区

踊りの時期と場所

9月 小林小学校運動会

保存団体

真方一区兵児踊保存会

概要

 天正年間、島津・伊東の争いにおいて、島津氏が薩摩武士の士気を鼓舞するために、各種の戦法を取り入れ、法螺貝・太鼓を鳴らして踊らせたのが起源と伝えられています。また、一説には、徳川家康が一国一城の制を布き諸大名は武備の強化を抑制されたが、島津氏は兵児踊りをとおして日頃の士風の鍛錬に励んだともいわれています。その後昭和38年、真方一区公民館落成記念祝賀に踊ったのをきっかけに『真方一区兵児踊保存会』が発足し、今日に至っています。

紙屋城攻め踊り(かみやしろぜめおどり)

背中にオレンジ色の旗を背負った演者がステージの上で立っている写真

伝承地

小林市野尻町紙屋地区

踊りの時期と場所

9月 紙屋小中学校合同運動会
11月 紙屋中学校文化祭 高妻神社ほぜ祭り

保存団体名

紙屋城攻め踊り保存会
紙屋小学校文化財愛護少年団

概要

 戦国時代(1570年頃)、伊東と島津の覇権争いは、城の争奪に明け暮れた。こんな話が語り継がれ、江戸時代の社会安定期(1700年元禄の頃)に、唄や踊りに表現されて、城攻め踊りが発生したと考えられる。紙屋城攻め踊りは、江戸時代から明治、大正、昭和初期に至るまで、旧暦8月13日(豊作祈願)、11月23日(ほぜ祭り)に、高妻神社に奉納後、弓場などで披露され、村人総出でこの日を楽しんだ。しかし、昭和初期の恐慌以来、途絶えがちであったが、昭和57年、栗須正道氏(故人)の指導で、紙屋小学校6年生によって再現され、昭和61年に大人の保存会もでき、今日に至っている。

鉦踊(かねおどり)

カラフルな造花や装飾を背負い、ステージの上で列を成して舞を披露する演者たちの写真

伝承地

小林市野尻町三ヶ野山地区

踊りの時期と場所

3月 のじりこぴあ桜祭り
9月 栗須小学校運動会

保存団体名

鉦踊保存会
栗須小学校文化財愛護少年団

概要

 今を去る八百有余年前、源氏と平家が一の谷で戦いました。一の谷は、今の神戸の須磨の浦あづ森あたりと言われています。

 源氏方は敗れた平家の残党を追討するため、九州日向まで流れ流れて来て、程々に疲れて最後には土着民となりました。苦しい山村の暮らしに苦労する住民を見兼ねて慰めるため、華々しかった戦いを思い浮かべ、その有様をドラマ化したのが鉦踊りの始まりであり、遠き昔を偲び踊り継がれて、現在に至っています。

須木地区兵児踊り(すきちくへこおどり)

緑の芝生の上で日の丸の扇子を手に持った沢山の演者が踊っている写真

伝承地

小林市須木中原地区

踊りの時期と場所

現在は休止中

保存団体名

須木地区兵児踊り保存会

概要

 旧薩摩藩の領地であった各地で今も踊り継がれているもので、須木では、原地区の郷土芸能として保存されています。踊り子は、紋付袴、脚絆に足袋、頭には白の鉢巻という凛々しい出で立ちです。ほら貝、三味線、太鼓、笛などに合わせ、縦列あるいは円陣を組んで、勇壮に踊ります。踊りが終わると、侍たちが登場する狂言がありますが、これには子供たちも加わり、ユーモラスな演技を披露して、見物する人たちの喝さいを浴びています。

奴踊り(やっこおどり)

着物を着た男女の縁者が屋外で日の丸の扇子を両手に持って踊っている写真

伝承地

小林市須木中原地区

踊りの時期と場所

現在は休止中

保存団体名

奴踊り保存会

概要

 この踊りは、聞くところによると大正11年に旧須木村の役場が「カヤ葺」の役場から現代的な2階建てでガラス張りの役場に建て替えられ、工事の竣工を祝って、村をあげて村民が歌い踊ったと伝えられ、その喜びを後世に伝え幾久しくと「ほぜ祭」に踊り継がれてきました。戦争等で、一時中断していた様ですが、終戦となり若者が復員し、青年が中心に行事が復活しました。当時、須木の祭は、10月25日「ほぜ」祭りといって村をあげて豊年を喜び、相撲大会等を開催し、酒などを酌み交わし交流を深めたそうです。

この記事に関するお問い合わせ先

教育部 社会教育課

〒886-0004
宮崎県小林市細野38番地1 小林中央公民館

電話番号:0984-22-7912
ファックス:0984-23-9700
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