伊東塚(いとうづか)
都於郡城(西都市)を本拠地とし、日向国の大半を治めていた伊東義祐は、元亀3(1572)年5月3日の夜、約3千名の兵力で前線基地の三ノ山(小林)から、島津氏家臣川上忠智の守る加久藤城を攻めさせたところ、思わぬ抵抗に遭い、伊東軍はいったん木崎原(えびの市飯野)に退却しました。飯野城で伊東軍を待ち受けていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となります。この戦いは島津氏側の大勝利に終り、その後敗れた伊東氏は急速に衰退し、かわって島津氏が日向国を治めるようになりました。これが後に九州の「桶狭間」といわれた木崎原の戦いです。
この木崎原の戦いで戦死した伊東軍5百余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者2百余名が真方因幡塚に葬られ、この墓は後に伊東塚と呼ばれるようになりました。慶安3(1650)年島津の武将五代勝左ヱ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立し、また、文化14(1817)年小林地頭市田長門守源義宣は石碑を建て「後の今を視る、今の昔を視るにひとし云々」の名文を彫り、広く世に伝えたといわれています。

種別
県指定史跡
指定日
昭和9年4月17日
所在地
小林市真方160-2
年代
戦国時代
地図
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更新日:2022年02月18日